館鼻の朝市に行って、いつもように鮫の山本さんの「えあー」のテントに顔を出し、花火大会の話をしていたら、オードブルの注文が入っていると言う。
高台にある家で家族が集まって見るのだとか。
2階にあるぼくの部屋から海も眺められるので、それならついでに一皿作ってもらえないかと頼んで、それで今夜は過ごすことに決めた。
それからボートアイランドで開催している「みなと博ランカイ」に、カメラをぶら下げてうろつき、シャーク号で港内周遊している頃にすっかり雨模様。
夕方5時に、店に大皿を受け取りに行く車中のBe FMで、花火大会の延期を聞いた。
でも、まぁ「えあー」さんの料理を食べられるのだから、それはそれでラッキーだった。
と書いてからすでに1週間。
私的に人生の大変があったので、その始末に追われてしまった。
何が大変かは、あまりに個人的だから記さないことにする。
WEBに名言として、ベストセラーになっている村上春樹さんの『1Q84』の「説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ」が引用掲載されていた。
思わずぼくはぱたりと好男子のように(講談師のシャレなんです)ひざを打ったのである。
同じことをぼくは、「話せば分かる人間というのは、話さなくても分かるし、話さなければ分からない者は話したって分からない」とくどくど、くどくどと言い続けてきた。
しかし納得してくれた人はほとんど少なかったし、ビミョーに「引かれて」いた。
先達の思想家として一方的に私淑している内田樹さんのブログ(内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/)にもクロスする内容のコラムがあった。
内田さんが繰り返し語る教育論において、学ぶ力とは、おそらく自分にとってこれから世の中を生きていく上で大事になるだろうこと、を感じとっていく力だと言う。
損得抜きで、親にも先生にも説明できないんだけど、どうしても学びたいと感じることがあったとしたら、それはすでに学びが始まっていて、その「機」をとらえることが学びの要であり、学ぶ力とは、自分にとって何が大事になるのかを、おそらく無意識の領域で感じ取って選択していく力だ。
学び始める人間は、どうして自分はこれを学ばなければならないのかを言うことができない。
「まだ知らないことを先駆的な仕方で知っている」という人間の潜在的な能力が社会に必要であり、それを身につけることが学習のキモである。
しかし、現代の教育システムでは、これを学べばいい大学に行って、いい就職ができて、安定的に幸せになって儲かりますよ、と買い物と同じように結論と行動が結びつくような損得勘定で誘導する。
すでに答えが出ているようなものは学びではなく計算であり、本来の学ぶ力を育むことはできない——と先生は言うのである。
(違っていたらゴメンナサイ。…というようなことを内田先生はよく書くので見習います)
世の中の多くのことは逆説的である。
画家は、自分が描く絵がどのようなものかは分からない。
小説家は、作品がどのような結末になるのか知らない。
しかし、はっきりと分かっているから創作を始めるとも言える。
リアルなイリュージョン(実体のある幻想)とでもいうべきものをつかみ取る能力が、生きていく上でとても大事なのだ。
そういえば、「大切なことは目に見えない」って星の王子様が言っていた。
そんなことを2009年のお盆に考えたり、思ったり。
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