2010年1月12日火曜日

八戸イチロー化大作戦

2010年に入って、もう2週間近く。
昨年は、「北のコナモン博覧会」(1月9日から始まった)ガイドブックの取材やら、三春屋催事場の「八戸せんべい汁研究所の写真パネル展」(予算の都合で大判の紙プリントになった)の作製やらで、予算なし、期間なしの仕事に追い立てられて終わった。

めでたさも中ぐらいなりおらが春(一茶)の心境は、むしろ望むところだけれど、中ぐらいも何も、めでたさそのものがない…薄い。
商店関係者には叱られるかも知らないけれど、元日営業というものが、そもそもまだ納得できていない。
せめて元日ぐらい、みんな休もうよ。

今年12月に東北新幹線新青森駅開業を控えている折、新聞などによると、県でも市でも観光対策などに力を注ぐとしている。
(理由もなしに、「ゴジラ」が上陸する時の音楽が頭の中で再生されている。新幹線はゴジラを運んでくるのか?)
朝市・銭湯・横丁を取材調査しているので、観光について考えさせられる機会も多いのだが、年の暮れになってふっと「八戸はイチローを見習うべきだ!」と、またまたいい加減なことに思い至った。

八戸は「観光の目玉がない」と多くの人が言う。
色んな観光資源はあるが、それぞれコンパクトで、これという決定打がない。
青森はねぶた、リンゴというイメージがはっきりしているが、八戸にはズバリこれだというものがない、と。
その通りだなと思うし、異論は全くない。

ただ元々がへそ曲がり根性なので、「観光には目玉が必要なのか?」と内心イラッともしていた。
観光の鼻とか口とかはどうすんだよ?
観光は鬼太郎のオヤジか?(ここまで来ると悪ノリだが)
「あの人、いい人なんだけどはっきりしなくて、ちょっとゴメンナサイ」と体よく引かれているようで、気に入らない。

「種差だけではお客は呼べない」というマスコミ関係者や旅行業者もいた。
必ずしもそうではないのでは、と思う。

檀一雄の『火宅の人』の中に、逗留していた蔦温泉で「明日は、種差海岸あたりまで足をのばして云々」(というような)一文があって、驚いたことがあった。
また、かれこれ20年近くも前になるだろうが、放送作家の永六輔さんが八戸を訪れた際に、「へぇ、八戸って安藤昌益がいたところなんだ! だったら八戸の人はもっと(PRに)がんばんなきゃネ」と送迎のタクシーの中で話されたことがあった(その後、永さんは天聖寺で講演を行っているし、また関係者の尽力で八戸に安藤昌益資料館が開館した)。

著名な作家やタレントさんがその価値を知っていても、こちらがそれを知らないと言うことが実際にあるのだ。
もちろん自分も含めて、自分たちの尺度で観光を考えたってダメなんだ。
第三者から見れば宝に見えて、地元では邪魔なゴミだったりするかも知らないじゃない。
ゴミというと語弊はあるが。
もっと丁寧に見直せば、八戸の自然的あるいは文化的資源の中に多くの観光価値が見えてくると思う。
何も大観光地をめざす必要はないのだし、観光そのものの捉え方を変える必要がある(ってすでに多くの方がおっしゃっている)。
でも本当にそうなのだ。

そこで冒頭のテーマだけれども、なぜ八戸はイチローをめざすべきか?
イチローは、野球選手のスター像を変えたと思うから。
9年間連続で200本安打という1世紀ぶりに大リーグの記録更新をしたイチローは、ホームランこそが野球という風潮が強い中で、新しい野球選手のスタイルを作ったと思う。

観光面において八戸はホームランバッターではないかも知れないが、コンパクトな魅力を数多く放つ多面的で多彩な観光都市としてあればいい—。
居酒屋のカウンターでそんなことを思い巡らせているうち、「八戸イチロー化大作戦」などと言い始め、「ハチノヘ、イチロー、オモロー!」などと酔言を吐いて顰蹙を買った今年のお正月。