2011年2月27日日曜日

My Mother's Dead

母が死んで三週間近くたつ。
死はいつでも突然だ。
母は自宅玄関前で倒れていたのを、隣家の方が発見して救急車を呼んでくれた。

前日までは元気とまでは言えないにせよ、普通に暮らしており、その日も近くのバス停で降りて少しばかりの坂道を上って自宅前まで歩きクモ膜下出血で意識を失った。
以前から脳に動脈瘤があることはわかっていたが、困難な部位であることと高齢であることを考慮して、あえて手術しないと決めていた。
担当医師からは、もし万一のことがあったら「その時は寿命だと思って」と告知されていた。
3月になれば83歳だった。

市民病院の救急病棟にかけつけ母の死に顔を見て、複雑に湧き起こるいくたの感情を包装するように「仏さんはずるいな」とまず思った。

14年前に入院していた父を亡くした時もそう感じたが、縁の薄い親子関係だった。
一人っ子として生まれると、周囲からは情愛たっぷりに甘やかされて育ったはずだとステレオタイプな偏見に見舞われる。
実際は、何と冷淡な親子関係だろうと僕は思ってきた。
子だくさんの農家に生まれ幼くして港町の網元に養子に出されたという、それなりに複雑な出自を持つ父と、やはり農家の長女で僕を生んでからも祖母の実家に通うような母とでは、まったく何もかもがソリが合わなかった。
子は「かすがい」というが、僕はまったく親の付属物か余分な物のように自分を感じていたし、父母の双方に挟まれて万力で締め付けられているような思いがした。

自宅に戻った父の棺の前で、母は「あんたに喪主をやってもらいます。ワタシはこれこれをもらいます」と自分の権利を一方的に宣告した。
悲しむ間もなく葬儀について相談する前に、最初に母から出た言葉がそれだった。
他に兄弟もいるはずもない僕が(実子ではないのではと疑った時期もあったが)、母と相続争いを繰り広げるとでも言うのだろうか。
そもそも資産管理など関与させられていなかったではないか。
葬儀の段取り一切が進行していく間中、悲しむ間などなく茫然として父を見送った。
金銭的な問題で母との無意味な交渉の最中、眼の表面は乾いていても眼球の裏側で滝のように流れ落ちている涙の感覚があった。

父の死後、何度も手術入院した母だが、その都度、僕には到底理解も納得もできない自分の主張を押し通した。
まだ父が元気な頃だった。
朝方、母は1人病院に出かけていた。
そうしたら病院からの電話があり、今日が母親の手術日であり事前に家族に説明したいのになぜ来ないのか、というお叱りだった。
父も僕も母から何も聞かされておらず、急いで病院に向かった。
うろたえていた父は「俺はどうせばいい、俺はどうなる…」と繰り返していた。
「俺に聞くなよ!」と情けない思いをこらえながら車を運転していた。
父は家族・親族間のあるトラブル以降、自分が始めた事業の意欲をすっかり失っており、社長の責任義務をほぼ放棄していた。
その穴埋めをするようにして僕が事業を引き継いでいた。
そんな親子関係だったのだ。

病院に到着するとすでに手術は始まっていたが、何より驚いたのは叔母夫婦が付き添いとして先に来ていたことだった。
母にとっての頼るべき家族とは、血縁のある村の実家のことだった。

特別に仲睦まじかったように見えた祖母が99歳の長寿で亡くなって母に少し変化が見えたような気がした。
「あんたたちの世話にならないように」と言っていた母が、「いずれはあんたたちの世話になるのだから」と言い出した。
「今までのことはそれとして、これからは第二の人生として生きていく」と自らに言い聞かせるように何度も話していた。
母の人生のどこまでが第一で、どこが区切りで第二の人生なのか、僕にはまるで分からなかったが、それを追求してどうなるものでもなかった。

太っていた母は、内臓疾患や心臓病で手術・入退院を繰り返し次第にやせ細っていった。
元気なうちはあちこちに自動車を乗り回し、何か新しい金儲け口を探し回っていたように見えた。
母に事業感覚はないが、「金銭」にこだわった。
「金の亡者!」とののしったこともあった。
事業所兼自宅に使っていた建物に長く1人で住んでいたが、暮らしが不便になる冬場は近くにある僕たちの家にしばらく住んだ。
「気ままに楽に暮らせばいいのだから」と何度言うのだが、トイレに出入りするたびに「うるさくしてすみません…」と他人行儀の小声で話すような堅苦しい身構えは治らなかった。
ただ僕や家人がいる前ではそのように振る舞うだけであって、1人家にいる時はずいぶん気ままに過ごしている気配はあった。

時折、僕は本当はずっと前に母を亡くしていて、それからずっと一緒に暮らしながら母を見送ってきたのではないかと思うことがある。

最後まで僕は父と同じように、母とも、普通の親子としての会話ができなかった(ように思う。普通の親子間の会話どういうものか、比較対象できないのではっきり分からない。これが普通といえば普通かも知れないし。ホームドラマとか映画にあるような温かい感情交流がある会話はほとんどなかった)。
直木賞作家の藤田宜永さんが何かの小説のあとがきに、厳格な母を避け続けてきた藤田さんが亡くなった母の穏やかに優しい死に顔を見て「はじめからこういう顔をしてくれていたら、俺は逃げなくてもすんだのに」と号泣したというようなことを書いていた。
それを読んで、僕も嗚咽した。
男はやっぱりみなマザコンなのだろう。

人間には2種類あると思っている。
母親に愛された人間か、そうでないか。
良いにつけ悪いにつけ、その経験が人間の生き方を決めていく。
世間では「子ども愛さない親がどこにいるのか!」と非難してくる人も多くいて、それがさらに当事者を苦しませ傷つける。

父母ともに一生を終えて、彼らが本当に望んだ生き方だったかどうか聞いてみたいような気はする。
別の人生のありようもあったかも知れず、ただ大げさかも知れないが運命といえる個々それぞれの事情(生きた時代だったり、生まれた場所だったり)を抱えて生き、死んでいく。
母の一生は格別な幸福はなかっただろうと思うが、それほど不幸でもなかったと思う。
母を知る親族や知己の受け止め方と違うかも知れないが、結構わがままし放題してきたじゃないか、とも思っている。

バス停のある坂道をとぼとぼ歩いて、僕の家の玄関前でこれから中に入ろうと鍵を取り出そうと母は亡くなった。
真っ白に映った脳のCTスキャン画像を示しながら、「何も苦しまずに一瞬で亡くなったと思う」と救急の担当医が説明してくれてありがたかった。
帰ろうとする場所があって良かったね、と僕は母に言いたいような気がして、通夜と出棺を狭いながらも自宅で行った。
2月8日に亡くなった母の葬儀は新聞広告はせずに近親者のみで11日に取り行われた。
最短に近い葬儀日程だったが、事情あって疎遠になっていた親戚や、しばらくぶりに母の孫である僕の長男長女が顔をそろえた。
これも母が最後に縁を取り持ってくれたのだという感慨があって「みんなが集まってくれて良かったね」と僕は冷たくなった母の頬をなでた。
恨みもしたし、憎んだこともあったし、恥さらしなような修羅場も少なくなかった。
でも最後に思い浮かぶのは、数少なかった生前の笑い声や笑顔だったりするのだから、仏さまはとてもずるいのである。

葬儀の一週間後、死後の世界と現世をテーマにした『ヒアアフター』を観た。
80歳になるというクリント・イーストウッド監督はすでに僕のヒーローである。














2011年1月9日日曜日

『ノルウェイの森』再読?
















 村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだら、無性にアナログレコードで曲を聴きたくなって、少しかび臭くなっていたLP盤のビートルズ『ラバー・ソウル』を引っ張り出して、針を落とした。
 今時、LPレコードやプレーヤーを持っているというのも珍しいだろうが、折角集めたLPレコードを捨てる気になれないまま、いつ聴く機会が来るとも限らないと埃を被っていた代物である。
 と言ってもオーディオマニアが持っているような大層な機器ではない。
 CDコンポを購入した10数年前、従来のプレーヤーだとデジタル変換がどうしたとかで使えないからというので、併せて会揃えたものだった。
 ターンテーブルに黒光りするレコードを乗せて聴くと、スピーカーの音が iTunesからのデジタル音源よりもダイレクトな感じがするのだが、単に気分的なことなのかもしれない。


 『ノルウェイの森』が書き下ろされたのは1987年で、すでに四半世紀にもなる。
 単行本では上下二巻、それぞれ赤と黒の表紙がオシャレな感じで鮮やかだったが、文庫版もそれを引き継いでいる。
 発行時に女性の友人から借りて読んだはずなのだが、ストーリーも情景も全く覚えていないことには我ながら愕然とする。
 断片すら記憶に残っていない。
 いったい何を読んでいたんだろう。
 しかし確かにページをめくった記憶はあるし、読んだと言って返却したし、感想の一言ぐらいは言った覚えがある。
 言ったという行為は覚えているが、何を言ったか覚えていない。
 その当時のぼくは何を考え、思い、感じていたんだろう。

 新刊『1Q84』が大ベストセラーとなり、『ノルウェイの森』が映画化され、いま再び村上春樹ブームの感がある。
 ブームという言い方は不適切かもしれないが、閉塞感が漂う現代にあって、村上春樹の作品世界とその発言が注目されている。
 特に深く印象に刻まれたのが、2009年2月に行われたイスラエルの文学賞「エルサレム賞」授賞式での講演である。
 イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃が行われた直後であったために、国内外に受賞自体と授賞式出席に対する批判があったという。
 村上さんはあえて授賞式に出席して「高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう」という決意を述べた講演は、人びとに感銘を与えて世界的に報道された。
 「私たちはそれぞれが多かれ少なかれ卵なのです。世界でたった一つしかない、掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っている——それが私たちなのです。私たちそれぞれが、程度の差はありますが、高くて頑丈な壁に直面しています。壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれています。体制は本来、私たちを守るためにあるのですが、時には、自ら生命を持ち、私たちの生命を奪ったり、他の誰かを、冷酷に、効率よく、組織的に殺すよう仕向けることがあります。私が小説を書く理由はたった一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることです」(毎日新聞)

 ちょうどその頃から村上春樹作品が気になり始め、それで最初に手にしたのが『国境の南、太陽の西』である。
 この小説の主人公「ハジメ君」は作者自身と重なりあうように、一人っ子で1月生まれの山羊座である。
 たまたま同じ一人っ子で山羊座であるぼくは、そういう単純な理由で一気に感情移入してしまう。
 この作品世界がぼくの世界に無関係なものではないという気がしたし、地面に足が下りきっていないような一種の浮遊感覚は、かつて自分にもあったものだ、という気がした。
 読み終えた後に、呼び覚まされたようなある種の感覚をはっきりと形容できないのはもどかしいけれども、それが言葉でできるぐらいならぼくも「村上春樹」になっているさ。

 そうして1979年のデビュー作『風の歌を聴け』を読み、続いて『ノルウェイの森』なのである。
 長い話を短くすると、「ワタナベ君」という主人公の「僕」と、17才で自殺した高校生の同級生「キズキ」、その恋人「直子」との三角関係を軸に、精神病院で直子と同室だった「レイコさん」と僕と同じ大学の「緑」との出会いと喪失の物語、ということになる。
 作品の時代背景が学生運動盛んな1970年前後ということを抜きにすれば、まったく現在の物語として読めるのではないかと思う。
 その一方で、矛盾するようだが当時の状況下だからこその別な奥行きもあるように思う。
 1969年は全共闘の東大安田講堂占拠事件があったり、アメリカではウッドストック音楽祭、アポロ11号が月面着陸した年だ。
 その時代に思春期を生きる人間は、個人の内面的な問題(恋愛や家族との人間関係性)と、熱いけれど混沌として価値観の揺れる社会との板挟みのような状態だった。
 そんな中で、死と性を意識する繊細な感受性をもって(しまった)人たちの物語は、美しくはあるが脆さと切なさをもって語られるしかなかったのかもしれない。
 今と違って、その頃はCDもなければパソコンもなく、ましてや携帯もネットもなく、個人の通信や表現手段といえば手書きのノートや手紙というアナログな時代だった。
 人間の内面的な葛藤は全く現代と変わらないが、内面を取り巻く環境の変化は速く激しい。
 時代は変わる、人は変わらない、というおなじみのフレーズを思い起こさせる。
 ぼくが物語を記憶から抹消しているということは、そのような美しく繊細なものを喪失して生きてきたということだろうか。
 ただ何となくだが、繊細な感受性や柔らかな感覚といったものを無意識的に忌避してきたような気がする。

 『ノルウェイの森』発刊から四半世紀がたつけれど、現代の壁—社会システムが壊れやすい殻に入っている魂を守れるようになったかと言えば、むしろ全く逆のように見える。
 卵を守るべき壁ばかりが巨大になっていく世界とは、どういう意味をもつのだろうか。
 その壁に対して、卵—つまり自分たち1人1人の弱い人間—は、何が出来るのか、それを考え行動する1年にしたい(卯年に、二つ点を入れると卵になるしね)。 


 『ラバー・ソウル』の次は、CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の「コスモズ・ファクトリー」を聴く。
 ジャケットの袋に入っていた薄茶に変色したペーパーに解説が載っていた。
 「ビートルズが来日してから、すでに10年という月日がたってしまいました。(中略)あの狂気と興奮のうずまきが10年前のことだったなんて、全くウソとしか思えません。(中略)最近、昔のビートルズのレコードがとてもよく売れるとか。あの時0歳だった人も今では立派な小学生というわけです。」
 いま改訂するなら「すでに45年」、「今では立派な中高年」と書き換えなければならない。
 カメにも負けず、ウサギも月日も速い!

2010年11月24日水曜日

勝浦は今日も朝市だった その2〜第15回全国朝市物産展と  いんべやぁフェスタ

 

 全国朝市サミット総会翌日の11月6日朝早く勝浦朝市に出かけました。
 勝浦朝市は、 毎週水曜日の定休日を除き毎朝午前7:00〜午前11:30ごろまで開催されています。月はじめから15日までは下本町、16日から仲本町というように月の前後半で開催場所が替わります。
 その日は下本町でしたが、当日は「いんべやぁフェスタ」もあるからか、思いの外、出店者は少ないようでした。

 それでもお寺近くの通りに並ぶ晩秋の露店は、かつての名作映画「男はつらいよ」シリーズにでも出てきそうな日本の情緒と風情を感じました。たまたま試食して買った、わらび餅のお店のおじさんは(と言っても多分私とほぼ同年代)、勝浦が気に入って東京から引っ越してきたと言っていましたし、自分で海苔を作っているという女性は横浜かどっかの出身でした。
 惜しまれつつ終了した八戸の片町朝市を彷彿とさせる朝市です。
   
 9時からは勝浦市で恒例「いんべやぁフェスタ勝浦」と「第15回全国朝市物産展」とが併せて開催され、多くの来場者でひしめきあっていました。「いんべやぁ」とは地元の方言で「皆で一緒に行こうよ……」との意味だそうです。にぎやかなまちづくりをテーマとして開催される「いんべやぁフェスタ勝浦」は、市内最大の青空市場で、中央商店街には、地元の産物などを販売するおよそ130の出店が立ち並んでいます。
 メインステージでは吹奏楽などのイベント、商店街の大売り出しや豪華景品が当たるスタンプラリーのほか、大道芸も行われるなど華やかなものでした。
 
 
●勝浦朝市
 天正の時代から400年以上続いている勝浦朝市は、石川県の輪島・岐阜県の高山と並んで「日本三大朝市」の一つと言われ、年間20万人ほどが訪れているといいます。
 採れたての野菜や果物など山の幸や、漁港で水揚げされたばかりの魚介類などの海の幸の新鮮な食材のほか、自家製の漬け物・つきたての餅・赤飯・しおから・なまり節や干物などの加工品、竹細工・木工細工・わら細工など工芸品も店先に並べられています。
下本町(毎月1日~15日)
仲本町(毎月16日~月末)
出店時間 午前7:00~午前11:30ごろまで
定休日 毎週水曜日

2010年9月30日木曜日

十日市食堂の夜

9月になって一度もブログ更新していないことにはっと気づいた。
読んでいる人もいないだろうからと自分に言い訳したりしているが、ブログページに右側の更新カレンダーで9月の表示が飛んでしまうのがちょっと惜しい気がして、宿題忘れした中学生のようにあわててこれを書いている始末。
9月18日・19日にB−1グランプリin厚木が開催され、八戸せんべい汁研究所メンバーの一人として参加した。
優勝本命という予想だったが八戸せんべい汁は惜しくも第3位。
閉会式会場でその発表の瞬間は、「あ〜ここで名前がコールされるのか」と落胆したのが正直なところだった。
けれど少し時間をおくと、3年連続の第2位でシルバーグランプリ、第5回となる今年は第3位のブロンズ受賞というのは、やはり八戸せんべい汁には底力があるのだと思えるようになった。
今回も全国にむけて「八戸せんべい汁」をさらに強くアピールできたのではないか。
しかも同じ青森県内で「黒石つゆ焼そば」が第7位、「十和田バラ焼き」が第8位と、参加46団体中10位以内に3団体が入賞するというのは大健闘だ。
コラムニストで日本経済新聞特別編集委員の野瀬泰申さんが、ブログで「開催場所、時期が違っても常に上位に食い込む〈八戸せんべい汁研究所〉こそ、最強の団体と言えるかもしれない」と書いて下さっている。
入場者43万5千人とされる今回のB−1グランプリ厚木大会で八戸せんべい汁研究所は二日間で合わせて1万1千食をひたすら作った。
八戸から20数名が厚木入りし、首都圏の八戸出身者も20数名手伝いに来てくれたことはとてもうれしかった。
肝心のせんべい汁なのにせんべいが入っていなかったなどのクレームもあったりしたが、「私も八戸なの」とか「せんべい汁、応援しているからね」とか温かい言葉も多かった。
各地で出展する八戸せんべい汁研究所の活動でいつも思うことだが、各地で受ける八戸せんべい汁の人気の高まりと、地元の反応の温度差だ。
八戸せんべい汁研究所がどうのこうのという話ではない。
経済的にも、観光PRの面からもせっかくの商機を逃しているのではないかという気がするのだ。
トリオ★ザ★ポンチョスの『この街と』がB−1グランプリ公式テーマ曲に選ばれて、紅白出場も夢じゃないようにも思うし。
トリオ★ザ★ポンチョスのことで言えば、B−1グランプリでのその活躍、役割はとても大きい。
そのことの認識は、実際にB−1グランプリの現場にいた者しか分からないだろうことが歯がゆい気がする。
例えば前夜祭。B−1グランプリのテーマ曲を歌うと、続々と幟旗をもって各団体がステージに上がってくる。そして最後はみんなが「八戸せんべい」の曲をリクエストして合唱し踊るのだ。
その各地の出展者が一体感をもたせるトリオ★ザ★ポンチョスの力はすごいのだ。
その熱気とか感動がなかなかこの地元八戸に伝えられない。
この夏、はっちラボで写真展を企画したり、ホコ天で「八戸のうわさ」を仕掛けたアーティストの山本耕一郎さんも突然現れた。
結局、B−1グランプリ期間中ずっと手伝ってくれていた(大うちわを仰いでいる山本さん)。
タレントの十日市秀悦さんも二日目にブースに来てくれて、アイスを差し入れてくれた。
「ここで”せT”(八戸せんべい汁研究所スタッフのオリジナルTシャツ)を着ていないと逆に恥ずかしいなさ」とショシそうだった。

十日市さんと言えば、9月10日、11日に行われたはっちプレイベント「酔っ払いに愛を2010〜横丁オンリーユー・シアター」でのトークライブ「十日市食堂の出前箱」が忘れられない。
十日市さんは二日間、各30分全8回のライブ全てをテーマを変え想い出に残る長横町をトークで再現してくれた。
長横町で生まれ育った十日市さんのこの公演にかける意気込みが伝わるような素晴らしいライブだった。
記録スタッフとして参加し全8回のうち7回を観ることができたのだが、特に最終回は大盛り上がりを見せた。
その何回目かに酔っ払いのフリをした小林眞市長が、少し遅れて入場し拍手が起こった。
「酔っ払いに愛を」というテーマに沿って、市長の演技は本物のようにうまかった。
十日市食堂のトッチャは、イサバのカッチャと並ぶローカルなキャラクターになると思うのだがどうだろう。
ぜひまた再演を望みたい。

そんなこんなで9月も過ぎるのだけれど、9月はいろいろな意味でターニングポイントの月だ。
ふるさと雇用再生事業の八戸朝市・銭湯・横丁調査もちょうど期間の半ばだし、八戸リージョナルマガジン『ユキパル』第2号も明日10月1日に発行の予定。その配本作業あり、また12月に開催予定の「北のコナモン博覧会2010」の取材も始まっている。
新青森駅開業で東北新幹線全線開通に向けてまた様々なイベントもあるようだし、ちょっこし気を引き締めて、少しはまめにブログ更新しなきゃな(そう言えばついこないだ、ブロガーとして結構有名な「なかちっぱ」嬢に、「ツイッターにもっとつぶやいてよ!」と叱咤された)。
何でか、「十日市食堂の夜」というタイトルが思い浮かんだのでそのまま使うことにした。

2010年8月15日日曜日

『バガボンド』に読み耽る

 部屋の壁に、A全判の井上雄彦のマンガ『バガボンド』のポスターを貼っている。
 5月に仙台で「井上雄彦〜最後のマンガ展」を観た時、買ってきたもので、青年期の宮本武蔵の顔のクローズアップ。猛々しさは潜めてはいるものの、その鋭い眼差しは知らずに夜中に見たら怖いだろうと思う。

 ところで、タイトルに読み耽ると入れたところで、“本を”読み耽るだったか、“本に”読み耽るだったか、迷ってしまった。
 ネット辞書で調べた結果、元は“に”読み耽るが正しく、今はどちらでも可ということらしい。
 やっぱり言葉って難しい。
「強さとは、本当に強くなってみるまでは ただの言葉」とは、「最後のマンガ展」のパネル。
「ことばは海に似ている。底に何があるかは深く潜ってみなければわからない」とも。
 言葉から受け取る意味やイメージは人それぞれに違っている、ということは、目の前のリアルが見る側によってそれぞれ違っているということでもあると思う。

『バガボンド』は、吉川英治『宮本武蔵』を原作に井上雄彦が12年にわたり描き続けているマンガで、単行本で現在33巻まで刊行されており、31巻まで読んだ。
 原作を読んではいないのではっきりとは知らないが、佐々木小次郎を聾唖の美少年と設定したことや宝蔵院胤舜(ほうぞういん いんしゅん)、野武士の辻風黄平(つじかぜこうへい、だったか?)などのキャラが、ジャニーズ系だったり現代風イケメンになっていて、完全に井上ワールドの宮本武蔵になっている。

 最初は、セリフやト書きの少ない絵だらけのマンガだな(というのもおかしいが)、しばらくその面白さがイマイチ実感できなかった。 
『この世に俺の名を知らぬ者なし」というぐらい強くなりたいと願った武蔵は、ひたすら強い相手を求め戦っていく。
「生命のやりとり」である真剣勝負では、首が切られ胴が切られ腕が飛び散り、一瞬にして生と死が分かたれる。
「読むマンガ」ではなく「感じるマンガ」というキャッチコピーそのままである。

 一乗寺下り松の決闘として有名な武蔵と吉岡一門との戦いは、中村(萬屋)錦之助主演の映画(ビデオ)でも観た。
 武蔵はまず幼い大将の吉岡源次郎を一刀両断して相手の気勢をそぎ、一門の剣豪たちを次々と倒して吉岡道場を壊滅させたというのが通説のようになっている。
『バガボンド』では吉岡一門70人と地獄のような斬り合いをする。
 生き残った武蔵は、再起不能なほどの深手を右足に負うことになり、勝負の意味について煩悶し、己を見つめ直しはじめる。
 敗者は闘いの場から去り、勝者のみにとって闘いが続く。負けるまで延々と。
 武蔵は沢庵和尚から「70人も斬ることになるのは何かが間違っているとは思わぬか? 人の命とは?」と問われる。
「勝ったのはどっちだ?」
 と聞く武蔵に、沢庵和尚は答える。
「勝った者はいない、そうじゃないかね?」
(『バガボンド』第29巻)

 以前、NHK総合のドキュメンタリー番組『プロフェッショナル〜仕事の流儀』の井上雄彦をたまたま見たが、一言のセリフに何日もかける姿に驚嘆した。
 生きている実感がもっとも得られて昂揚することがゲームの中にあるならば、生き死にをかけた「真剣勝負」はその極限であろう。
 存在をかけた究極の勝負に武蔵は挑み、天下一の武士として世に出たいと願っていたのだ。

 今の時代、スポーツやビジネスで、戦争を比喩にして語られることは多い。
 今年は南アフリカで、サッカー・ワールドカップ大会が開催されたが、勝者とはチャンピオンとなったスペインの1チームだけであり、あとの全てのチームは敗者だという言い方ができる。
 甲子園での全国高校野球選手権大会にしても、今年頂点に立った優勝校が次の年の勝者であることは希有だろう。
 永続的な勝者などいない。 
 ビジネスの世界にあっても、ゼロサムゲーム化が著しく進行中のグローバル経済の中で勝者は一握りの巨大な世界企業であり、あとの二番手以下の企業は敗者にしかならぬのであろうか?
 ルールがあるのかないのか分からない資本主義の競争の果てに一体何が残るのか?
 経済素人ながら、最強を目ざして闘いの螺旋にもがく武蔵の姿に、つい重ねて考えてしまったのである。

 一方で、井上がこだわっているのは「リアル」だと思う(『リアル』という作品もあるが、読んでない)。
 目の前に相手が真剣をもって臨んできた時に感じる空気感、威圧感、恐怖感を紙の上で体験しているのではないかと思う。
 作者は途中で「画(筆)と肉体を一体化させる」として、ペンから毛筆の面相筆に持ち変えてマンガを描いているという。
 唐突だが、ふと、感覚(サンサシオン)に言葉は邪魔だと画家のアンリ・マティスが言っていたことを思い出した(確か『画家のノート』)。

 解説的なようなことを書いているようでだんだん嫌になってきたが、「真剣」に生きることへの問いと意味を『バガボンド』から考えさせられていることを書きとめておきたかっただけ。
「天下無双〜この世に俺の名を知らぬ者なし」として強くなりたかった武蔵は、命をかけた勝負に勝ち続けて有名になったが闘いには終わりがない。
 その先に何があるのかは、リアルに見る者だけが知りうる世界のように思う。
 沢庵和尚は武蔵に「帰る場所をつくれ」と諭す。
 武蔵は(井上は)、反論する。
「『帰る』場所ならもうすでに在るはず……これからつくる場所に……どうやって『帰る』?」(『バガボンド』第29巻)。
 遠いなぁ……。

2010年7月31日土曜日

ユキパル創刊しました。



お待たせ?
しました?
ようやく「ユキパル」第1号を発行しました。

A5サイズ全16ページという小冊子です。
書店で取り扱っているわけでもないから、なかなか目にする機会も少ないでしょうけど。
「八戸ローカルマガジン」「エリアマガジン」とかサブタイトルを検討しましたが、「リージョナル・マガジン」などと気張ったものにしました。
「地域雑誌」という意味です。
覚えた言葉をすぐ使ってみたくなっただけでした。
このページ数で定価200円。
このデフレ時代に、のっけから価格競争からは脱落しています。
量より質という方向性なのだと、見栄も張ってます。
内容は、特集「館鼻朝市の本格珈琲」として、「S.Roasteria」さん、ミニチュア工房ちびっつ@さんほかを取材掲載しました。
今号は創刊号なので、PR用に無料で手にすることもあると思います。
またWEBユキパルで近々、PDFで見られるようにします。
もし気に入るようであれば、次号からぜひお買い求め下さい。
取り扱ってくれるお店も漸次増やし、また書店販売も考えております。
本誌の配布普及に協力応援して下さる方、お店、企業を「ユキパル★ぱる(サポーターズ)」として募集しています。
試合に出て活躍したわけでもないけど、お立ち台で「応援よろしくお願いします!」と四方に手を振りたい気分です。


それにしても、この電子メディアの興隆期に何で今さら紙媒体なんだろう?
と自分でも考えてしまいます。
一応、iPadは、手に入れて使ってもいるので、その便利さ、面白さ、可能性は十分認めます。

ちなみにi文庫HDというアプリを購入した時は、個人的に衝撃でした。
インストールした途端に、画面の本棚に文庫の名作がずらり。
それを眺めただけで、すっかり読書欲が満たされてしまったけれど(夏目漱石だけで100冊がストックされている)。

もとい。
考えが、はっきりと整理されてはいないが、電子メディアができないことで、紙ができることを見たいということのような気がします。
バーチャル(virtual=仮想の)の反対語はリアル(real=現実的)ではなくて、フィジカル(physical=身体的)だそうだが、人類のコミュニケーションってもともと、アーとかウーとか声を発したり、身振り手振りの身体動作から始まったと思います。
そこがもっとも基本的で直接的な他者とのコミュニケーションの出発であれば、インターネットやケータイに以前の、文字や印刷技術の発明すらが、デジタル化の過程と言えるでしょう。

コミュニケーション手段の発達が、相互理解をしやすくしたのと同時に別な次元での誤解も生まれたのだと思います。
コミュニケーション手段の発達が、人類に幸福を導くものだったとすれば、世界の今の状況はなかったでしょうし。
やろうとすれば地球の反対側の人々とコンタクトがとれるような手段を得た反面、理解と同量の新たな無理解と錯誤をもたらしていることに気づいていないのではないか。
そんな感じがします。
必ずしも郷愁ではなくて、アナログ文化に愛着があるし、人間は本質的にデジタル(digital=非連続な)状態でいられるものなのか、懸念があります。

でもって、何を言いたかったかというと、今更原始人のようにアーとかウーとかという意思伝達には戻れないけれども(ちょっとやってみたい気がします)、コミュニケーションにおける機能の便利さを少しは疑っておいたほうがいいと、私の中のフィジカルが言っているのです。
で、紙媒体へのこだわりが残っている、と。
でも、紙媒体は、金もかかる媒体でもある、と。
だから協力して下さる方がいれば歓迎です、と。


今夜から、八戸三社大祭です。
「八戸三社大祭公式ガイドブック」も読んでみて下さいね。

2010年6月28日月曜日

それから、それから


今年こそ、すばやいブログ更新の誓いを立てたはずなのに…何と云うことだろう?
3月に書いたまま、すでに夏至も過ぎてしまった。
壮年老いやすくブログ更新なりがたし。
ま、過ぎたことはしかたない。

年度末決算で、慣れない会計やら何やらで、かかりきりになっていたこととか、当事務所の大家であるカン氏が4月に退職し、隣室にデスクを構えることになるなど、いろいろと変化が相次いだ。

カン氏の従兄弟ススム氏が、「まゆの里づくり協議会」(豊田美好会長)の事務局長として活動することになり、ちょっとだけど、それにも首をつっこんでしまった。
最初は、絹づくりの繭とか蚕とか、あるいは桑とか聞いても、全くピンと来なかったが、講演会なんかにぼんやりと顔を出しているうちに、だんだん興味が湧いてきた。
絹、シルクというと高級繊維という明るくリッチなイメージの一方で、女工哀史「あぁ野麦峠」のような暗く悲惨なイメージの二つが同時にあるが、近年では、シルクは繊維としてのみならず、食品や化粧品、医療の分野でもその用途が広く開発研究されてきており、重労働だった養蚕業も技術的な改良が進んできているともいう。
全く知らなかったのだが、実はシルクの元となる養蚕業と八戸周辺地域との関わりは深かったと聞いた。
現在は手入れもされず荒廃しているが、ほんの数十年前まで、この地域のあちこちで蚕飼料となる桑の木を植えていたのだそうだ。



5月下旬に、カン氏が大学生活を過ごした山形に、ススム氏と男3人で三泊四日の旅行に出た。
(名目は、カン氏定年退職の記念で、温泉宿泊券などを活用させてもらったのだが、これは本来、ご夫婦で使うものではなかったかと、この場を借りて奥様に深謝)。
もともとこの旅行の目的は、カン氏の旧知である長沢裕二氏が代表を務める山形フォーラム再訪と、仙台に戻った八戸工業大学建築学科の教授であった伊藤敬一さんの山荘訪問という二つであった。
しかしいき先々で、東北でただ一カ所残るシルク製糸工場(鶴岡市)を見学させてもらったり、同じ鶴岡市のまちづくり会社がオープンさせた映画館「まちなかキネマ」や庄内映画村資料館など養蚕工場跡地を再利用したのだったりとか、映画とシルクとの意外な関係には驚いた。


鶴岡で藤沢周平記念館、酒田の土門拳記念館に寄って、山形市内で一泊。フォーラム山形のカフェ・フォーラムで、長沢さんや、フォーラム八戸の開設に尽力した浦山さん、カン氏の友人細矢さんと再会する。
秋保温泉郷に休憩しながら、古川の伊藤山荘に向かう。
仙台から1時間という山荘の建つ場所は、山道をくねくねと入っていった先にあり、長靴姿の伊藤さんが出迎えに来てくれた。
600坪の敷地に建つ木造平屋は、手作り感に満たされているけれど、太陽光および太陽熱パネルを屋根に載せた素敵なものだった。
「(夫は)まるで自分が太陽光をやったように言うけど、私がやりたいって言ったのよ(笑)」と奥様がおっしゃる姿がほほえましかった。
行く先々で色んな方々にお世話になり、この山形旅行はかなり密度の濃い旅行となり、八戸に戻ってから、その印象をまとめきれないほどの強い印象となって今もある。


その2週後に、仙台の娘をたずねて、シルク・ドゥ・ソレイユ『コルテオ』公演と「井上雄彦〜最後のマンガ展」を一緒に観る。
久々に感動的な体験であり、これでまたしばらく生きられるという思い。
井上展は、現在、三日町に建設中の「はっち」のベースと目される施設だが、隣の芝生は青かった。
中心のストリートのあちこちでは「とっておきの音楽祭」というイベントが行われていた。


この3ヵ月間に、日刊青森建設工業新聞社の住まいの情報紙『陽だまり』第9号、第10号を編集制作。
今は、八戸観光コンベンション協会発行の『八戸三社大祭公式ガイドブック』の制作に関わっている。
ご多分にもれず、予算なし、期間なしのタイトな企画。
それでも各山車組を取材して回ると、熱くお祭りを語って止まない人々に出あうと、何とかいいものをつくりたいという気持ちにさせられる。
こういう熱い人たちがいるうちは、まだ何とか大丈夫だろうと思う。
が…いつまでもあると思うな金とお祭りバカ。(この場合の、バカは山車組の人たちが自ら言うようないみで肯定的に使っておりますので)。


これを7月の上旬までにデータをあげなくてはならないし、並行してこの前の(3月!)に書いたように冊子『ユキパル』の編集制作も進めている。
なかなか息のつけない状況であるけれども、旅行で出会った人々や風景、作品の記憶をエネルギー源にして突破していこうとぞ思ふ。