2011年2月27日日曜日

My Mother's Dead

母が死んで三週間近くたつ。
死はいつでも突然だ。
母は自宅玄関前で倒れていたのを、隣家の方が発見して救急車を呼んでくれた。

前日までは元気とまでは言えないにせよ、普通に暮らしており、その日も近くのバス停で降りて少しばかりの坂道を上って自宅前まで歩きクモ膜下出血で意識を失った。
以前から脳に動脈瘤があることはわかっていたが、困難な部位であることと高齢であることを考慮して、あえて手術しないと決めていた。
担当医師からは、もし万一のことがあったら「その時は寿命だと思って」と告知されていた。
3月になれば83歳だった。

市民病院の救急病棟にかけつけ母の死に顔を見て、複雑に湧き起こるいくたの感情を包装するように「仏さんはずるいな」とまず思った。

14年前に入院していた父を亡くした時もそう感じたが、縁の薄い親子関係だった。
一人っ子として生まれると、周囲からは情愛たっぷりに甘やかされて育ったはずだとステレオタイプな偏見に見舞われる。
実際は、何と冷淡な親子関係だろうと僕は思ってきた。
子だくさんの農家に生まれ幼くして港町の網元に養子に出されたという、それなりに複雑な出自を持つ父と、やはり農家の長女で僕を生んでからも祖母の実家に通うような母とでは、まったく何もかもがソリが合わなかった。
子は「かすがい」というが、僕はまったく親の付属物か余分な物のように自分を感じていたし、父母の双方に挟まれて万力で締め付けられているような思いがした。

自宅に戻った父の棺の前で、母は「あんたに喪主をやってもらいます。ワタシはこれこれをもらいます」と自分の権利を一方的に宣告した。
悲しむ間もなく葬儀について相談する前に、最初に母から出た言葉がそれだった。
他に兄弟もいるはずもない僕が(実子ではないのではと疑った時期もあったが)、母と相続争いを繰り広げるとでも言うのだろうか。
そもそも資産管理など関与させられていなかったではないか。
葬儀の段取り一切が進行していく間中、悲しむ間などなく茫然として父を見送った。
金銭的な問題で母との無意味な交渉の最中、眼の表面は乾いていても眼球の裏側で滝のように流れ落ちている涙の感覚があった。

父の死後、何度も手術入院した母だが、その都度、僕には到底理解も納得もできない自分の主張を押し通した。
まだ父が元気な頃だった。
朝方、母は1人病院に出かけていた。
そうしたら病院からの電話があり、今日が母親の手術日であり事前に家族に説明したいのになぜ来ないのか、というお叱りだった。
父も僕も母から何も聞かされておらず、急いで病院に向かった。
うろたえていた父は「俺はどうせばいい、俺はどうなる…」と繰り返していた。
「俺に聞くなよ!」と情けない思いをこらえながら車を運転していた。
父は家族・親族間のあるトラブル以降、自分が始めた事業の意欲をすっかり失っており、社長の責任義務をほぼ放棄していた。
その穴埋めをするようにして僕が事業を引き継いでいた。
そんな親子関係だったのだ。

病院に到着するとすでに手術は始まっていたが、何より驚いたのは叔母夫婦が付き添いとして先に来ていたことだった。
母にとっての頼るべき家族とは、血縁のある村の実家のことだった。

特別に仲睦まじかったように見えた祖母が99歳の長寿で亡くなって母に少し変化が見えたような気がした。
「あんたたちの世話にならないように」と言っていた母が、「いずれはあんたたちの世話になるのだから」と言い出した。
「今までのことはそれとして、これからは第二の人生として生きていく」と自らに言い聞かせるように何度も話していた。
母の人生のどこまでが第一で、どこが区切りで第二の人生なのか、僕にはまるで分からなかったが、それを追求してどうなるものでもなかった。

太っていた母は、内臓疾患や心臓病で手術・入退院を繰り返し次第にやせ細っていった。
元気なうちはあちこちに自動車を乗り回し、何か新しい金儲け口を探し回っていたように見えた。
母に事業感覚はないが、「金銭」にこだわった。
「金の亡者!」とののしったこともあった。
事業所兼自宅に使っていた建物に長く1人で住んでいたが、暮らしが不便になる冬場は近くにある僕たちの家にしばらく住んだ。
「気ままに楽に暮らせばいいのだから」と何度言うのだが、トイレに出入りするたびに「うるさくしてすみません…」と他人行儀の小声で話すような堅苦しい身構えは治らなかった。
ただ僕や家人がいる前ではそのように振る舞うだけであって、1人家にいる時はずいぶん気ままに過ごしている気配はあった。

時折、僕は本当はずっと前に母を亡くしていて、それからずっと一緒に暮らしながら母を見送ってきたのではないかと思うことがある。

最後まで僕は父と同じように、母とも、普通の親子としての会話ができなかった(ように思う。普通の親子間の会話どういうものか、比較対象できないのではっきり分からない。これが普通といえば普通かも知れないし。ホームドラマとか映画にあるような温かい感情交流がある会話はほとんどなかった)。
直木賞作家の藤田宜永さんが何かの小説のあとがきに、厳格な母を避け続けてきた藤田さんが亡くなった母の穏やかに優しい死に顔を見て「はじめからこういう顔をしてくれていたら、俺は逃げなくてもすんだのに」と号泣したというようなことを書いていた。
それを読んで、僕も嗚咽した。
男はやっぱりみなマザコンなのだろう。

人間には2種類あると思っている。
母親に愛された人間か、そうでないか。
良いにつけ悪いにつけ、その経験が人間の生き方を決めていく。
世間では「子ども愛さない親がどこにいるのか!」と非難してくる人も多くいて、それがさらに当事者を苦しませ傷つける。

父母ともに一生を終えて、彼らが本当に望んだ生き方だったかどうか聞いてみたいような気はする。
別の人生のありようもあったかも知れず、ただ大げさかも知れないが運命といえる個々それぞれの事情(生きた時代だったり、生まれた場所だったり)を抱えて生き、死んでいく。
母の一生は格別な幸福はなかっただろうと思うが、それほど不幸でもなかったと思う。
母を知る親族や知己の受け止め方と違うかも知れないが、結構わがままし放題してきたじゃないか、とも思っている。

バス停のある坂道をとぼとぼ歩いて、僕の家の玄関前でこれから中に入ろうと鍵を取り出そうと母は亡くなった。
真っ白に映った脳のCTスキャン画像を示しながら、「何も苦しまずに一瞬で亡くなったと思う」と救急の担当医が説明してくれてありがたかった。
帰ろうとする場所があって良かったね、と僕は母に言いたいような気がして、通夜と出棺を狭いながらも自宅で行った。
2月8日に亡くなった母の葬儀は新聞広告はせずに近親者のみで11日に取り行われた。
最短に近い葬儀日程だったが、事情あって疎遠になっていた親戚や、しばらくぶりに母の孫である僕の長男長女が顔をそろえた。
これも母が最後に縁を取り持ってくれたのだという感慨があって「みんなが集まってくれて良かったね」と僕は冷たくなった母の頬をなでた。
恨みもしたし、憎んだこともあったし、恥さらしなような修羅場も少なくなかった。
でも最後に思い浮かぶのは、数少なかった生前の笑い声や笑顔だったりするのだから、仏さまはとてもずるいのである。

葬儀の一週間後、死後の世界と現世をテーマにした『ヒアアフター』を観た。
80歳になるというクリント・イーストウッド監督はすでに僕のヒーローである。














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