2011年7月11日月曜日

東日本大震災から4ヶ月

 2月に亡くなった母のことを書いた時に、スマトラ沖地震をモチーフとしたクリント・イーストウッド監督の映画『ヒアアフター』のことを書き添えた。
 大津波に巻き込まれて九死に一生を得た女性ジャーナリストが体験した死後の世界という(受け取りようによってはオカルト的な内容だが決してそのようなことのない)優れた作品だった。 
 作品冒頭にCGによる大津波の再現シーンがあるのだが、そのリアリティは衝撃的だった。
 その上映期間中に、あの3.11東日本大震災が起こった。
 母の死からほぼ1ヶ月のことだった。
 映画は急遽、上映中止となったが、それから幾度となく映画のCG映像を凌ぐ実際の大津波をテレビで見ることになったのだ。

 父が亡くなったのが1994年10月。その年の暮れに三陸はるか沖地震、明くる1月に阪神淡路大震災が起きたのだった。
 そう言えば、大正末期の生まれの父だが「オレは関東大震災があった年に生まれた」と、よく話していた。
 東京大空襲では警察官として焼け跡の死体を片付けたとも聞いた。そんな大変な時代を自分は生きのびたのだ、と伝えたかったのだろう。
 偶然とはいえ両親の死後に起こったそれぞれの大震災は、個人的な喪失感や感傷を押しつぶすほど圧倒的だった。
 悲劇的状況であって、重なり合うようでもあり深く記憶に刻みつけられる。
 
 3.11大震災のことをどう捉えればいいのか、いまだ分からない。
 多くの人が発言もしているように、日本という国にとって大きな転換点であり、これから先どのような進路を選ぶかによって全く違う国の姿になるのだろうことは確かなのだと思う。
 復旧か復興かというテーマに議論の余地があるのだろうか。
 ある省庁で「復興ではなくて復旧だろう」と怒鳴られたという話もあるぐらいだから、「旧」と「興」の一字の違いは神経質にならざるをえない影響があるようだ。

 国にとって地方とは人間の身体に例えれば、末梢神経とか毛細血管のようなものだと思う。
 中央首都圏が中枢神経であるとしたら人間の身体の各部位に伸びている末梢神経が地方。
 血流でいえば動脈と静脈の間をむすぶ最も細い血管、毛細血管が地方文化なのだ。
 けれどもこれまでの日本は、中央一極集中で地方をおしなべて画一化し、結果的に地方文化が衰退してきた歴史があると思う(特に東北地方)。
 指先に神経の通わぬ、血が行き届かぬ人間はどうなるか? 
 ゆっくりと壊死していく運命しかないのではなかろうか。

 国の文化の源(オリジン)は、それぞれの地方に多様な豊かさをもって存在していたと思う。
 中央と地方という対立的な捉え方もいやなのだが、地方は国の源流ではないか。
 地方の源流から発掘した原石を洗練し、国の文化として世界に発信する機能を持つのが中央(都市)だったと思う。
 しかし長年の一極集中型の国の在りようが地方を疲弊衰退させ、その文化的原石もまた回復不能なまでに荒廃した。
 「原石」を「人間」と置き換えても、「農業」「文化」「芸術」としてもいいのかもしれない。
 地方が崩壊すれば、いずれ中央首都圏も疲弊衰退するしかない。
 つまり源流が涸れてしまい、掘るべき文化の鉱脈がなくなるわけだから。

 神は細部に宿ると言うがごとく、一国の文化もまた本来地方に源があるのだと思う。
 日本という国が今後、復興再生するとすれば、地方と地域の活性化しかない。

 3.11前の東北地方は、健康体だったか?
 言うまでもなく疲弊し、そこに暮らす人々も閉塞感に包まれていたと思う。
 人間の身体で大手術が必要な時に、元通りの疲れて消耗した状態に戻すことは無意味であって、健康体(新たな産業振興)をめざすべきなのは当然のことではないか。
 
 震災から3週間たった4月2日、岩手県野田村から普代村、田野畑村、宮古市田老区、山田町、大槌町から釜石市にかけて三陸海岸沿岸をたずねた。
 テレビ映像で実感できなかったことは、太平洋三陸沿岸から千葉県に至る被災地のパースペクティブ感だった。
 沿岸を車で走ると、津波で一面瓦礫となった光景がずっと続くのである。
 延々、どこまでもどこまでも…。
 海に浮かぶべき船体が山奥にあり、内地にあるべき家屋が港近くに傾いている…。
 現実を超えるという意味でシュールリアリズムであり、日常というリアリティが崩れ去った気がした。

 4月29日から5月1日にかけて、宮城県石巻市から南三陸町、登米町における八戸せんべい汁研究所の炊き出し支援にも参加した。
 被災後、すでに2ヶ月近くになろうとしている避難所の生活を見聞きすると、つい無力感や偽善の気分に陥ったりするのだが、どういう形であっても関わるべきなのだと開き直って考えた。
 
 最近、作家の故吉村昭さんの『三陸海岸大津波 』(文春文庫)を読んだ。
 1970年に中央公論社から出版され、2004年以降、文春文庫版で再版、東日本大震災後に全国から注文が相次ぎ、増刷中という。この印税を、同じ作家であり妻の津村節子さんは被災地の岩手県田野畑村に全額寄付しているという。
 明治29(1896)年の大津波から書き起こされた大津波の記録文学で、あらためてその類似に驚かされる。
 津波の後は、高台に移転する住民が相次いだが、「津波の記憶がうすれるにつれて、逆もどりする傾向があった」とすでに指摘しているのが感慨深い。

 吉村さんの記録にはなかった現代における新たな大問題は、「原発」。
 まだ停電の最中に、ラジオから福島第一原子力発電所事故のニュースが入った時に、これはメルトダウンが起こるだろうと直感したのだが、決して望んだわけではないのに、はたしてそうなってしまった。

 原発については推進派と反対派の断絶的な積年の対立があり、いまだ合意する方向を見出せない。
 個人的には、極力早く段階的な脱原発を図り、再生可能なエネルギー開発に注力すべきだと思っている。

 そうすると、今度は自然エネルギーに転換すると日本の経済は壊滅的な打撃を受けるとか、節電しなければ大停電が起こり原発事故以上の災害になるとか、およそ恫喝的な反論が待ち構える。
 でも、そうかも知れないが、そうでないかも知れない。
 どっちにしても根拠となるものがないのだ。
 どちらがより安全か、あるいは正しいかは感覚的に判断するよりほかはない。

 写真家・作家の藤原新也さんが、NHKの「原発問題」に関する討論会についてブログで憤っていた。
「原子力安全委員の奈良林直という人の発言で、フランスで数年前熱波が襲い、川の水が温かくなりすぎたために原子炉の稼動を一時的に停止せざるを得なかったということを対論者が述べると、奈良林は原発が止まったためにあのときフランスでは5万人の死者が出た、と電力がいかに大事かということを述べたのである。
 この奈良林という人はフランスのことに言及しながらフランスのごく当たり前の市民生活というものを知らないか、日本人の大半の人がフランスの市民生活を知らないということを前提にウソをついているとしか思えない。
 フランスにおいてクーラーを備えている一般家庭というのはほとんどないと言っていい。
そういう風土なのだ。あの時の死者というのは熱波という未曾有の自然現象にどのように対応してよいか分からなかったゆえの犠牲者なのである。
 こういったウソが堂々とまかり通る討論番組のレベルや推して知るべし。」
というものである。
 同じくフランスの一般家庭を実際に知らないので、安易に同調する資格はないのだが、こういうことはあるだろうと直感的に思う。

 政治についても同様で、菅直人首相の退陣するとかしないとかが争点となっている。
 それはどっちでもいいのだ、総理は誰だって。
 被災地の援護対策がすみやかに進展するかどうかが問題なのであり、それについて実際的な方がいいと思うのだが、どちらがそうなのか、それがさっぱり分からない。
 菅氏が有能なのか無能なのか分からない。
 政権欲でしがみついているだけなのか、そうでないのか。
 国会議員同士でもなければ、知り合いでも友だちでもなく、もちろん会ったこともない。
 そういう人に対して、この人が悪くて、この人を辞めさせれば、うまくいくと言われてもなぁ。
 菅氏が首相でなければいけないという主張はないのだが、菅氏が辞任して良くなる保証をまったく感じない。
 菅氏に替わって「再生可能エネルギー法案」を押し通す人がいれば、その人でいいのだけれど、何故か、出てこない。
 「エネルギー政策のような重要な問題は、国会で論議されるべきであって、選挙の争点にはなじまない」ということを某政党代表が発言したということだが、これはどういうことなのだろうか?
 重要な問題は選挙民に決めさせるなということなのか?
 国民投票で「脱原発」を選んだイタリア国民は、どういうことになるのか?

 3.11以後、かように日本と日本人(日本に暮らす全ての人々)はあまたの問題をなげかけられている。
「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」とは、フランス人画家ポール・ゴーギャンの作品名だ。
 調べたら1897年、明治三陸大津波の翌年に描かれていた。

2011年2月27日日曜日

My Mother's Dead

母が死んで三週間近くたつ。
死はいつでも突然だ。
母は自宅玄関前で倒れていたのを、隣家の方が発見して救急車を呼んでくれた。

前日までは元気とまでは言えないにせよ、普通に暮らしており、その日も近くのバス停で降りて少しばかりの坂道を上って自宅前まで歩きクモ膜下出血で意識を失った。
以前から脳に動脈瘤があることはわかっていたが、困難な部位であることと高齢であることを考慮して、あえて手術しないと決めていた。
担当医師からは、もし万一のことがあったら「その時は寿命だと思って」と告知されていた。
3月になれば83歳だった。

市民病院の救急病棟にかけつけ母の死に顔を見て、複雑に湧き起こるいくたの感情を包装するように「仏さんはずるいな」とまず思った。

14年前に入院していた父を亡くした時もそう感じたが、縁の薄い親子関係だった。
一人っ子として生まれると、周囲からは情愛たっぷりに甘やかされて育ったはずだとステレオタイプな偏見に見舞われる。
実際は、何と冷淡な親子関係だろうと僕は思ってきた。
子だくさんの農家に生まれ幼くして港町の網元に養子に出されたという、それなりに複雑な出自を持つ父と、やはり農家の長女で僕を生んでからも祖母の実家に通うような母とでは、まったく何もかもがソリが合わなかった。
子は「かすがい」というが、僕はまったく親の付属物か余分な物のように自分を感じていたし、父母の双方に挟まれて万力で締め付けられているような思いがした。

自宅に戻った父の棺の前で、母は「あんたに喪主をやってもらいます。ワタシはこれこれをもらいます」と自分の権利を一方的に宣告した。
悲しむ間もなく葬儀について相談する前に、最初に母から出た言葉がそれだった。
他に兄弟もいるはずもない僕が(実子ではないのではと疑った時期もあったが)、母と相続争いを繰り広げるとでも言うのだろうか。
そもそも資産管理など関与させられていなかったではないか。
葬儀の段取り一切が進行していく間中、悲しむ間などなく茫然として父を見送った。
金銭的な問題で母との無意味な交渉の最中、眼の表面は乾いていても眼球の裏側で滝のように流れ落ちている涙の感覚があった。

父の死後、何度も手術入院した母だが、その都度、僕には到底理解も納得もできない自分の主張を押し通した。
まだ父が元気な頃だった。
朝方、母は1人病院に出かけていた。
そうしたら病院からの電話があり、今日が母親の手術日であり事前に家族に説明したいのになぜ来ないのか、というお叱りだった。
父も僕も母から何も聞かされておらず、急いで病院に向かった。
うろたえていた父は「俺はどうせばいい、俺はどうなる…」と繰り返していた。
「俺に聞くなよ!」と情けない思いをこらえながら車を運転していた。
父は家族・親族間のあるトラブル以降、自分が始めた事業の意欲をすっかり失っており、社長の責任義務をほぼ放棄していた。
その穴埋めをするようにして僕が事業を引き継いでいた。
そんな親子関係だったのだ。

病院に到着するとすでに手術は始まっていたが、何より驚いたのは叔母夫婦が付き添いとして先に来ていたことだった。
母にとっての頼るべき家族とは、血縁のある村の実家のことだった。

特別に仲睦まじかったように見えた祖母が99歳の長寿で亡くなって母に少し変化が見えたような気がした。
「あんたたちの世話にならないように」と言っていた母が、「いずれはあんたたちの世話になるのだから」と言い出した。
「今までのことはそれとして、これからは第二の人生として生きていく」と自らに言い聞かせるように何度も話していた。
母の人生のどこまでが第一で、どこが区切りで第二の人生なのか、僕にはまるで分からなかったが、それを追求してどうなるものでもなかった。

太っていた母は、内臓疾患や心臓病で手術・入退院を繰り返し次第にやせ細っていった。
元気なうちはあちこちに自動車を乗り回し、何か新しい金儲け口を探し回っていたように見えた。
母に事業感覚はないが、「金銭」にこだわった。
「金の亡者!」とののしったこともあった。
事業所兼自宅に使っていた建物に長く1人で住んでいたが、暮らしが不便になる冬場は近くにある僕たちの家にしばらく住んだ。
「気ままに楽に暮らせばいいのだから」と何度言うのだが、トイレに出入りするたびに「うるさくしてすみません…」と他人行儀の小声で話すような堅苦しい身構えは治らなかった。
ただ僕や家人がいる前ではそのように振る舞うだけであって、1人家にいる時はずいぶん気ままに過ごしている気配はあった。

時折、僕は本当はずっと前に母を亡くしていて、それからずっと一緒に暮らしながら母を見送ってきたのではないかと思うことがある。

最後まで僕は父と同じように、母とも、普通の親子としての会話ができなかった(ように思う。普通の親子間の会話どういうものか、比較対象できないのではっきり分からない。これが普通といえば普通かも知れないし。ホームドラマとか映画にあるような温かい感情交流がある会話はほとんどなかった)。
直木賞作家の藤田宜永さんが何かの小説のあとがきに、厳格な母を避け続けてきた藤田さんが亡くなった母の穏やかに優しい死に顔を見て「はじめからこういう顔をしてくれていたら、俺は逃げなくてもすんだのに」と号泣したというようなことを書いていた。
それを読んで、僕も嗚咽した。
男はやっぱりみなマザコンなのだろう。

人間には2種類あると思っている。
母親に愛された人間か、そうでないか。
良いにつけ悪いにつけ、その経験が人間の生き方を決めていく。
世間では「子ども愛さない親がどこにいるのか!」と非難してくる人も多くいて、それがさらに当事者を苦しませ傷つける。

父母ともに一生を終えて、彼らが本当に望んだ生き方だったかどうか聞いてみたいような気はする。
別の人生のありようもあったかも知れず、ただ大げさかも知れないが運命といえる個々それぞれの事情(生きた時代だったり、生まれた場所だったり)を抱えて生き、死んでいく。
母の一生は格別な幸福はなかっただろうと思うが、それほど不幸でもなかったと思う。
母を知る親族や知己の受け止め方と違うかも知れないが、結構わがままし放題してきたじゃないか、とも思っている。

バス停のある坂道をとぼとぼ歩いて、僕の家の玄関前でこれから中に入ろうと鍵を取り出そうと母は亡くなった。
真っ白に映った脳のCTスキャン画像を示しながら、「何も苦しまずに一瞬で亡くなったと思う」と救急の担当医が説明してくれてありがたかった。
帰ろうとする場所があって良かったね、と僕は母に言いたいような気がして、通夜と出棺を狭いながらも自宅で行った。
2月8日に亡くなった母の葬儀は新聞広告はせずに近親者のみで11日に取り行われた。
最短に近い葬儀日程だったが、事情あって疎遠になっていた親戚や、しばらくぶりに母の孫である僕の長男長女が顔をそろえた。
これも母が最後に縁を取り持ってくれたのだという感慨があって「みんなが集まってくれて良かったね」と僕は冷たくなった母の頬をなでた。
恨みもしたし、憎んだこともあったし、恥さらしなような修羅場も少なくなかった。
でも最後に思い浮かぶのは、数少なかった生前の笑い声や笑顔だったりするのだから、仏さまはとてもずるいのである。

葬儀の一週間後、死後の世界と現世をテーマにした『ヒアアフター』を観た。
80歳になるというクリント・イーストウッド監督はすでに僕のヒーローである。














2011年1月9日日曜日

『ノルウェイの森』再読?
















 村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだら、無性にアナログレコードで曲を聴きたくなって、少しかび臭くなっていたLP盤のビートルズ『ラバー・ソウル』を引っ張り出して、針を落とした。
 今時、LPレコードやプレーヤーを持っているというのも珍しいだろうが、折角集めたLPレコードを捨てる気になれないまま、いつ聴く機会が来るとも限らないと埃を被っていた代物である。
 と言ってもオーディオマニアが持っているような大層な機器ではない。
 CDコンポを購入した10数年前、従来のプレーヤーだとデジタル変換がどうしたとかで使えないからというので、併せて会揃えたものだった。
 ターンテーブルに黒光りするレコードを乗せて聴くと、スピーカーの音が iTunesからのデジタル音源よりもダイレクトな感じがするのだが、単に気分的なことなのかもしれない。


 『ノルウェイの森』が書き下ろされたのは1987年で、すでに四半世紀にもなる。
 単行本では上下二巻、それぞれ赤と黒の表紙がオシャレな感じで鮮やかだったが、文庫版もそれを引き継いでいる。
 発行時に女性の友人から借りて読んだはずなのだが、ストーリーも情景も全く覚えていないことには我ながら愕然とする。
 断片すら記憶に残っていない。
 いったい何を読んでいたんだろう。
 しかし確かにページをめくった記憶はあるし、読んだと言って返却したし、感想の一言ぐらいは言った覚えがある。
 言ったという行為は覚えているが、何を言ったか覚えていない。
 その当時のぼくは何を考え、思い、感じていたんだろう。

 新刊『1Q84』が大ベストセラーとなり、『ノルウェイの森』が映画化され、いま再び村上春樹ブームの感がある。
 ブームという言い方は不適切かもしれないが、閉塞感が漂う現代にあって、村上春樹の作品世界とその発言が注目されている。
 特に深く印象に刻まれたのが、2009年2月に行われたイスラエルの文学賞「エルサレム賞」授賞式での講演である。
 イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃が行われた直後であったために、国内外に受賞自体と授賞式出席に対する批判があったという。
 村上さんはあえて授賞式に出席して「高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう」という決意を述べた講演は、人びとに感銘を与えて世界的に報道された。
 「私たちはそれぞれが多かれ少なかれ卵なのです。世界でたった一つしかない、掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っている——それが私たちなのです。私たちそれぞれが、程度の差はありますが、高くて頑丈な壁に直面しています。壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれています。体制は本来、私たちを守るためにあるのですが、時には、自ら生命を持ち、私たちの生命を奪ったり、他の誰かを、冷酷に、効率よく、組織的に殺すよう仕向けることがあります。私が小説を書く理由はたった一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることです」(毎日新聞)

 ちょうどその頃から村上春樹作品が気になり始め、それで最初に手にしたのが『国境の南、太陽の西』である。
 この小説の主人公「ハジメ君」は作者自身と重なりあうように、一人っ子で1月生まれの山羊座である。
 たまたま同じ一人っ子で山羊座であるぼくは、そういう単純な理由で一気に感情移入してしまう。
 この作品世界がぼくの世界に無関係なものではないという気がしたし、地面に足が下りきっていないような一種の浮遊感覚は、かつて自分にもあったものだ、という気がした。
 読み終えた後に、呼び覚まされたようなある種の感覚をはっきりと形容できないのはもどかしいけれども、それが言葉でできるぐらいならぼくも「村上春樹」になっているさ。

 そうして1979年のデビュー作『風の歌を聴け』を読み、続いて『ノルウェイの森』なのである。
 長い話を短くすると、「ワタナベ君」という主人公の「僕」と、17才で自殺した高校生の同級生「キズキ」、その恋人「直子」との三角関係を軸に、精神病院で直子と同室だった「レイコさん」と僕と同じ大学の「緑」との出会いと喪失の物語、ということになる。
 作品の時代背景が学生運動盛んな1970年前後ということを抜きにすれば、まったく現在の物語として読めるのではないかと思う。
 その一方で、矛盾するようだが当時の状況下だからこその別な奥行きもあるように思う。
 1969年は全共闘の東大安田講堂占拠事件があったり、アメリカではウッドストック音楽祭、アポロ11号が月面着陸した年だ。
 その時代に思春期を生きる人間は、個人の内面的な問題(恋愛や家族との人間関係性)と、熱いけれど混沌として価値観の揺れる社会との板挟みのような状態だった。
 そんな中で、死と性を意識する繊細な感受性をもって(しまった)人たちの物語は、美しくはあるが脆さと切なさをもって語られるしかなかったのかもしれない。
 今と違って、その頃はCDもなければパソコンもなく、ましてや携帯もネットもなく、個人の通信や表現手段といえば手書きのノートや手紙というアナログな時代だった。
 人間の内面的な葛藤は全く現代と変わらないが、内面を取り巻く環境の変化は速く激しい。
 時代は変わる、人は変わらない、というおなじみのフレーズを思い起こさせる。
 ぼくが物語を記憶から抹消しているということは、そのような美しく繊細なものを喪失して生きてきたということだろうか。
 ただ何となくだが、繊細な感受性や柔らかな感覚といったものを無意識的に忌避してきたような気がする。

 『ノルウェイの森』発刊から四半世紀がたつけれど、現代の壁—社会システムが壊れやすい殻に入っている魂を守れるようになったかと言えば、むしろ全く逆のように見える。
 卵を守るべき壁ばかりが巨大になっていく世界とは、どういう意味をもつのだろうか。
 その壁に対して、卵—つまり自分たち1人1人の弱い人間—は、何が出来るのか、それを考え行動する1年にしたい(卯年に、二つ点を入れると卵になるしね)。 


 『ラバー・ソウル』の次は、CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の「コスモズ・ファクトリー」を聴く。
 ジャケットの袋に入っていた薄茶に変色したペーパーに解説が載っていた。
 「ビートルズが来日してから、すでに10年という月日がたってしまいました。(中略)あの狂気と興奮のうずまきが10年前のことだったなんて、全くウソとしか思えません。(中略)最近、昔のビートルズのレコードがとてもよく売れるとか。あの時0歳だった人も今では立派な小学生というわけです。」
 いま改訂するなら「すでに45年」、「今では立派な中高年」と書き換えなければならない。
 カメにも負けず、ウサギも月日も速い!