村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだら、無性にアナログレコードで曲を聴きたくなって、少しかび臭くなっていたLP盤のビートルズ『ラバー・ソウル』を引っ張り出して、針を落とした。
今時、LPレコードやプレーヤーを持っているというのも珍しいだろうが、折角集めたLPレコードを捨てる気になれないまま、いつ聴く機会が来るとも限らないと埃を被っていた代物である。
と言ってもオーディオマニアが持っているような大層な機器ではない。
CDコンポを購入した10数年前、従来のプレーヤーだとデジタル変換がどうしたとかで使えないからというので、併せて会揃えたものだった。
ターンテーブルに黒光りするレコードを乗せて聴くと、スピーカーの音が iTunesからのデジタル音源よりもダイレクトな感じがするのだが、単に気分的なことなのかもしれない。
『ノルウェイの森』が書き下ろされたのは1987年で、すでに四半世紀にもなる。
単行本では上下二巻、それぞれ赤と黒の表紙がオシャレな感じで鮮やかだったが、文庫版もそれを引き継いでいる。
発行時に女性の友人から借りて読んだはずなのだが、ストーリーも情景も全く覚えていないことには我ながら愕然とする。
断片すら記憶に残っていない。
いったい何を読んでいたんだろう。
しかし確かにページをめくった記憶はあるし、読んだと言って返却したし、感想の一言ぐらいは言った覚えがある。
言ったという行為は覚えているが、何を言ったか覚えていない。
その当時のぼくは何を考え、思い、感じていたんだろう。
新刊『1Q84』が大ベストセラーとなり、『ノルウェイの森』が映画化され、いま再び村上春樹ブームの感がある。
ブームという言い方は不適切かもしれないが、閉塞感が漂う現代にあって、村上春樹の作品世界とその発言が注目されている。
特に深く印象に刻まれたのが、2009年2月に行われたイスラエルの文学賞「エルサレム賞」授賞式での講演である。
イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃が行われた直後であったために、国内外に受賞自体と授賞式出席に対する批判があったという。
村上さんはあえて授賞式に出席して「高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう」という決意を述べた講演は、人びとに感銘を与えて世界的に報道された。
「私たちはそれぞれが多かれ少なかれ卵なのです。世界でたった一つしかない、掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っている——それが私たちなのです。私たちそれぞれが、程度の差はありますが、高くて頑丈な壁に直面しています。壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれています。体制は本来、私たちを守るためにあるのですが、時には、自ら生命を持ち、私たちの生命を奪ったり、他の誰かを、冷酷に、効率よく、組織的に殺すよう仕向けることがあります。私が小説を書く理由はたった一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることです」(毎日新聞)
ちょうどその頃から村上春樹作品が気になり始め、それで最初に手にしたのが『国境の南、太陽の西』である。
この小説の主人公「ハジメ君」は作者自身と重なりあうように、一人っ子で1月生まれの山羊座である。
たまたま同じ一人っ子で山羊座であるぼくは、そういう単純な理由で一気に感情移入してしまう。
この作品世界がぼくの世界に無関係なものではないという気がしたし、地面に足が下りきっていないような一種の浮遊感覚は、かつて自分にもあったものだ、という気がした。
読み終えた後に、呼び覚まされたようなある種の感覚をはっきりと形容できないのはもどかしいけれども、それが言葉でできるぐらいならぼくも「村上春樹」になっているさ。
そうして1979年のデビュー作『風の歌を聴け』を読み、続いて『ノルウェイの森』なのである。
長い話を短くすると、「ワタナベ君」という主人公の「僕」と、17才で自殺した高校生の同級生「キズキ」、その恋人「直子」との三角関係を軸に、精神病院で直子と同室だった「レイコさん」と僕と同じ大学の「緑」との出会いと喪失の物語、ということになる。
作品の時代背景が学生運動盛んな1970年前後ということを抜きにすれば、まったく現在の物語として読めるのではないかと思う。
その一方で、矛盾するようだが当時の状況下だからこその別な奥行きもあるように思う。
1969年は全共闘の東大安田講堂占拠事件があったり、アメリカではウッドストック音楽祭、アポロ11号が月面着陸した年だ。
その時代に思春期を生きる人間は、個人の内面的な問題(恋愛や家族との人間関係性)と、熱いけれど混沌として価値観の揺れる社会との板挟みのような状態だった。
そんな中で、死と性を意識する繊細な感受性をもって(しまった)人たちの物語は、美しくはあるが脆さと切なさをもって語られるしかなかったのかもしれない。
今と違って、その頃はCDもなければパソコンもなく、ましてや携帯もネットもなく、個人の通信や表現手段といえば手書きのノートや手紙というアナログな時代だった。
人間の内面的な葛藤は全く現代と変わらないが、内面を取り巻く環境の変化は速く激しい。
時代は変わる、人は変わらない、というおなじみのフレーズを思い起こさせる。
ぼくが物語を記憶から抹消しているということは、そのような美しく繊細なものを喪失して生きてきたということだろうか。
ただ何となくだが、繊細な感受性や柔らかな感覚といったものを無意識的に忌避してきたような気がする。
『ノルウェイの森』発刊から四半世紀がたつけれど、現代の壁—社会システムが壊れやすい殻に入っている魂を守れるようになったかと言えば、むしろ全く逆のように見える。
卵を守るべき壁ばかりが巨大になっていく世界とは、どういう意味をもつのだろうか。
その壁に対して、卵—つまり自分たち1人1人の弱い人間—は、何が出来るのか、それを考え行動する1年にしたい(卯年に、二つ点を入れると卵になるしね)。
『ラバー・ソウル』の次は、CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の「コスモズ・ファクトリー」を聴く。
ジャケットの袋に入っていた薄茶に変色したペーパーに解説が載っていた。
「ビートルズが来日してから、すでに10年という月日がたってしまいました。(中略)あの狂気と興奮のうずまきが10年前のことだったなんて、全くウソとしか思えません。(中略)最近、昔のビートルズのレコードがとてもよく売れるとか。あの時0歳だった人も今では立派な小学生というわけです。」
いま改訂するなら「すでに45年」、「今では立派な中高年」と書き換えなければならない。
カメにも負けず、ウサギも月日も速い!