今年こそ、すばやいブログ更新の誓いを立てたはずなのに…何と云うことだろう?
3月に書いたまま、すでに夏至も過ぎてしまった。
壮年老いやすくブログ更新なりがたし。
ま、過ぎたことはしかたない。
年度末決算で、慣れない会計やら何やらで、かかりきりになっていたこととか、当事務所の大家であるカン氏が4月に退職し、隣室にデスクを構えることになるなど、いろいろと変化が相次いだ。
カン氏の従兄弟ススム氏が、「まゆの里づくり協議会」(豊田美好会長)の事務局長として活動することになり、ちょっとだけど、それにも首をつっこんでしまった。
最初は、絹づくりの繭とか蚕とか、あるいは桑とか聞いても、全くピンと来なかったが、講演会なんかにぼんやりと顔を出しているうちに、だんだん興味が湧いてきた。
絹、シルクというと高級繊維という明るくリッチなイメージの一方で、女工哀史「あぁ野麦峠」のような暗く悲惨なイメージの二つが同時にあるが、近年では、シルクは繊維としてのみならず、食品や化粧品、医療の分野でもその用途が広く開発研究されてきており、重労働だった養蚕業も技術的な改良が進んできているともいう。
全く知らなかったのだが、実はシルクの元となる養蚕業と八戸周辺地域との関わりは深かったと聞いた。
現在は手入れもされず荒廃しているが、ほんの数十年前まで、この地域のあちこちで蚕飼料となる桑の木を植えていたのだそうだ。
5月下旬に、カン氏が大学生活を過ごした山形に、ススム氏と男3人で三泊四日の旅行に出た。
(名目は、カン氏定年退職の記念で、温泉宿泊券などを活用させてもらったのだが、これは本来、ご夫婦で使うものではなかったかと、この場を借りて奥様に深謝)。
もともとこの旅行の目的は、カン氏の旧知である長沢裕二氏が代表を務める山形フォーラム再訪と、仙台に戻った八戸工業大学建築学科の教授であった伊藤敬一さんの山荘訪問という二つであった。
しかしいき先々で、東北でただ一カ所残るシルク製糸工場(鶴岡市)を見学させてもらったり、同じ鶴岡市のまちづくり会社がオープンさせた映画館「まちなかキネマ」や庄内映画村資料館など養蚕工場跡地を再利用したものだったりとか、映画とシルクとの意外な関係には驚いた。
秋保温泉郷に休憩しながら、古川の伊藤山荘に向かう。
仙台から1時間という山荘の建つ場所は、山道をくねくねと入っていった先にあり、長靴姿の伊藤さんが出迎えに来てくれた。
600坪の敷地に建つ木造平屋は、手作り感に満たされているけれど、太陽光および太陽熱パネルを屋根に載せた素敵なものだった。
「(夫は)まるで自分が太陽光をやったように言うけど、私がやりたいって言ったのよ(笑)」と奥様がおっしゃる姿がほほえましかった。
行く先々で色んな方々にお世話になり、この山形旅行はかなり密度の濃い旅行となり、八戸に戻ってから、その印象をまとめきれないほどの強い印象となって今もある。
その2週後に、仙台の娘をたずねて、シルク・ドゥ・ソレイユ『コルテオ』公演と「井上雄彦〜最後のマンガ展」を一緒に観る。
久々に感動的な体験であり、これでまたしばらく生きられるという思い。
井上展は、現在、三日町に建設中の「はっち」のベースと目される施設だが、隣の芝生は青かった。
中心のストリートのあちこちでは「とっておきの音楽祭」というイベントが行われていた。
この3ヵ月間に、日刊青森建設工業新聞社の住まいの情報紙『陽だまり』第9号、第10号を編集制作。
今は、八戸観光コンベンション協会発行の『八戸三社大祭公式ガイドブック』の制作に関わっている。
ご多分にもれず、予算なし、期間なしのタイトな企画。
それでも各山車組を取材して回ると、熱くお祭りを語って止まない人々に出あうと、何とかいいものをつくりたいという気持ちにさせられる。
こういう熱い人たちがいるうちは、まだ何とか大丈夫だろうと思う。
が…いつまでもあると思うな金とお祭りバカ。(この場合の、バカは山車組の人たちが自ら言うようないみで肯定的に使っておりますので)。
これを7月の上旬までにデータをあげなくてはならないし、並行してこの前の(3月!)に書いたように冊子『ユキパル』の編集制作も進めている。
なかなか息のつけない状況であるけれども、旅行で出会った人々や風景、作品の記憶をエネルギー源にして突破していこうとぞ思ふ。